今回は1997年のナビスコカップ優勝について振り返ります。
不定期企画の第2弾です。
ナビスコ杯は初の決勝進出で初優勝しました。
前年にリーグ優勝の初タイトルで勢いづく中2つ目のタイトル獲得です。
カップ戦はここまでなぜか縁がありませんでした。
Jリーグの始まる前年の1992年こそベスト4になります。
しかし1993年、1996年はグループリーグで敗退し、1994年は全試合トーナメント方式で1回戦の浦和レッズに1-2で負けており結果を残せていませんでした。(1995年はリーグ戦の過密日程で開催されず)
そのため優勝できた時はリーグとは違った嬉しさがありました。
早速本題に入っていこうと思います。
1997年はリーグ戦の開幕が4月12日開幕とかなり遅かった年でした。
これは3月に翌年の1998年フランスW杯のアジア1次予選があった為です。
そのためリーグ開幕前の3月にナビスコ杯が開幕しました。
まず鹿島のグループリーグは浦和レッズ(前年リーグ6位)、セレッソ大阪(前年リーグ13位)、サガン鳥栖(JFL参加予定)の4クラブです。
ホームアンドアウェーで6試合を戦います。
当時のサガン鳥栖は直前に解散したJリーグ準会員の鳥栖フューチャーズを実質的に承継するチームであることから救済措置として特例的に参加を認められていたアマチュアチームでした。
Jクラブだけでなくさらに強豪クラブもいなかったためよいグループに振り分けられた印象でした。
この中で上位2クラブに入ることをまずは目標に始まります。
そして鹿島アントラーズの開幕戦は3月8日にホームでセレッソ大阪でした。
しかしいきなり出鼻を挫かれます。
2度もリードする展開も追いつかれ最後は引き離されます。
まさかの2-4で敗戦スタートと早くもカップ戦の相性の悪さを感じました。
その1週間後の3月15日の浦和レッズ戦も1-1のドローで勝てず早くも残り試合での連勝が絶対条件になってきます。
次の鳥栖に5-0で初勝利をするとプレッシャーから解放されたのか残り4試合を3勝1分と負けなしで乗り切ります。
結果的に3勝2分け1敗のグループ1位で決勝トーナメントに進みます。
実はグループリーグ最終節の3月29日のセレッソ大阪戦は90分にジョルジーニョのゴールで4-3と逆転勝利をしています。
もし3-3のドローであった場合はグループ2位に転落し決勝トーナメントの準々決勝でいきなりジュビロ磐田との対戦になっていました。
そうなっていたら結果はどうなっていたかわかりません。
このナビスコ杯優勝の1番のハイライトはセレッソ戦のジョルジーニョの決勝ゴールだと思っています。
そしてフランスW杯の最終予選があった関係でリーグ戦を4月から10月に詰め込み長くナビスコ杯は休止状態になります。
約半年経ってようやく10月15日から決勝トーナメントが始まります。
この年は準々決勝から決勝まで全てホームアンドアウェーの2試合での決着でした。
鹿島アントラーズの準々決勝の相手は当時JFLのコンサドーレ札幌です。
ここでも対戦相手にかなり恵まれました。
10月15日の第1戦こそ2-1と競りましたが、3日後の第2戦は黒崎比差支が前半だけでハットトリックを達成し7-0と大勝でした。
次の準決勝は2試合とも痺れる試合でした。
対戦相手は前年リーグで優勝争いをした名古屋グランパスエイトです。
ストイコビッチがW杯予選のためユーゴスラビア代表に招集されており不在でしたが強かったです。
11月1日に行われたホームでの第1戦は互いに守備をベースに戦う中40分のジョルジーニョのゴールで先勝します。
そして11月8日の第2戦は名古屋は勝たないといけないので前に出てくると思われましたがそこを防ぎ切りスコアレスドローで試合を終えます。
引き分けでよい試合をきっちり引き分けにできる伝統はこの頃から引き継がれていました。
これで決勝への切符を手にしました。
そしてここまで日本代表で不在だった秋田豊、名良橋晃、相馬直樹、本田泰人のディフェンスライン4人が戻ってきます。
現在のルヴァン杯と同じく当時のナビスコ杯も決勝以外は代表活動と被っています。
そのため代表に何人も持っていかれて敗退するケースをよく目にします。
このタイトルを獲るにはリーグとは違った難しさがありますね。
11月22日に決勝第1戦がヤマハスタジアムで行われました。
相手は強豪クラブへと成長途中にあったジュビロ磐田です。
ここからジュビロとの幾多の名勝負が生まれますがこのナビスコ杯決勝が始まりです。
代表組は11月16日にイラン代表にジョホールバルの歓喜で勝利し日本のW杯初出場を決めたばかりでした。
ここまで代表がいない間もディフェンスラインをきっちり守り続けたサブ組のためにも絶対に優勝しなければいけない試合でした。
試合は前半34分にFKからのこぼれ球を秋田豊が芸術的なループシュートで先制します。
ヘディングのイメージがある秋田ですがこの大舞台では足で魅せてくれました。
しかし直後の35分に名良橋晃が2枚目の警告で退場になり数的不利に立たされます。
ここから鹿島は粘りを見せますがついに74分に中山雅史にゴールを抉じ開けられます。
10人という状況とアウェーでの第1戦ということを考えれば同点で終えられれば御の字でした。
ただ鹿島はこの試合をこのままで終わろうとは思っていません。
反撃に転じ87分のジョルジーニョのPKで2-1と勝ち越して試合を終えます。
本当にこの大会のジョルジーニョはここ一番の得点でチームに貢献してくれました。
そして1週間後の11月29日はカシマサッカースタジアムでの第2戦です。
初戦での勝利とホームのアドバンテージがあり選手はのびのびとプレーしていました。
結果は5-1と全くジュビロを寄せつけず2戦合計7-2と圧勝でナビスコ杯初優勝を成し遂げました。
MVPは文句なしでジョルジーニョが選ばれています。
この年は今だに鹿島史上最強のチームであったと言われることが多くあります。
直後にJリーグのチャンピオンシップで同じジュビロ磐田に苦汁を味わされるため嬉しさは霞んでしまいました。
しかし前年のリーグ制覇に続き2年連続で国内主要タイトルを獲得したことで着実に日本を代表するクラブへの階段を登り始めました。
そしてシーズン最後の天皇杯も制し2冠を達成します。
2年間で3つのタイトルを獲得しこれから訪れる黄金時代への予感を感じた優勝でした。
次回はその1997年の天皇杯初制覇について振り返っていこうと思います。
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