1993年のJリーグ開幕後の草創期はまさにブームでした。
民放で平日も休日も生中継がありました。
Jリーグ関連のグッズは世の中に溢れかえり、Jリーグチップスを子どもは皆食べていました。
さらに選手はスーパースター扱いで特にヴェルディ川崎の選手は凄かったです。
三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏など日本代表ばかりで人気、実力ともにトップでした。
そんな中、鹿島アントラーズから一斉を風靡したスターが生まれました。
それはアルシンド・サルトーリです。
長くサラサラな髪の毛なのに頭頂部がハゲているというカッパ頭で愛された選手です。
アデランスのCMでアルシンドになっちゃうよというキャッチフレーズが大流行しJリーグを知らない無い方にも浸透していました。
そんなアルシンドはブラジルで19歳でフラメンゴのトップチームに上がります。
その後サンパウロ、グレミオと名門チームに所属していましたがこれといった成績は残せていませんでした。
しかしフラメンゴ時代にチームメイトだったジーコの誘いを受けて1993年のJ開幕元年に鹿島アントラーズに移籍してきます。
実はあの頭で当時25歳だったのです。
そのため選手としては最も脂が乗った時期でした。
髪型ばかりが記憶に残っている方も多いかもしれませんが選手として物凄いFWでした。
身長は175㎝と大柄ではありませんでしたがスピードに乗ったドリブル、そしてシュートがやたらうまかったです。
キックの精度が高くセットプレーもよく蹴っていました。
今だに直接FKでの通算13得点はJ1リーグ歴代6位の記録です。
そんなアルシンドは1993年5月16日の名古屋グランパスエイトとの開幕戦では2ゴールを挙げデビューします。
ジーコのハットトリックばかりが取り上げられますがアルシンドも2ゴールを決めています。
さらにジーコのハットトリックとなる3点目のアシストのクロスを上げたのもアルシンドでした。
その後も得点を量産しアントラーズのファーストステージ優勝に貢献しました。
鹿島がいきなりJ初年度の最初のステージで優勝したのはアルシンドの活躍なしには語れません。
結局1年目は28試合出場で22得点と大活躍でした。
得点王は28得点で横浜マリノスのラモン・ディアスが輝き惜しくも得点ランキング2位でした。
気性が荒くイエローカードを7枚ももらっていましたのでもう少し出場できれば得点王になれたかもしれません。
しかしインパクトは抜群でした。
2年目の1994年も同じように活躍します。
43試合で28得点とチームトップの数字を叩き出します。
しかしまたしてもジェフユナイテッド市原のフランク・オルデネビッツの30点に及ばず2年連続の得点ランキング2位になります。
1994年もイエローカード5枚、レッドカード1枚をもらっていますので、しっかり出場できていれば得点王になれた気がします。
この年のシーズンオフに年俸で揉め当時のライバルのヴェルディ川崎に移籍してしまいます。
そのため鹿島にはたった2年しか所属していませんでしたが今でも語り継がれる伝説の選手になりました。
その2年間でリーグ戦に71試合に出場し50得点を挙げています。
50得点はアントラーズ歴代7位の記録です。
2年間でこれほど得点を決めている選手は現在までアルシンドしかいません。
できればもう少し鹿島でプレーして欲しかったです。
そして月日は流れ2011年にアルシンドの息子イゴールが練習にトライアル参加し契約を勝ち取りました。
これでクラブ史上初の親子2代での所属になりました。
ただ父親のように結果は残せませんでした。
イゴールは18歳での加入だったためリーグ戦に2試合出場したのみの1年で契約が更新されず残念な結果でした。
今もまだ28歳と若いため中国2部リーグの梅州客家足球倶楽部でプレーしているようです。
話をアルシンドに戻しますとブラジルからJリーグに来た選手であったため実力が未知数でした。
それがあれだけの大活躍をし夢がありました。
最近はJリーガーの国内移籍が多くなりある程度プレースタイルや実力がわかってしまいます。
そのためよく言えば計算は立ちますが悪く言えば面白みに欠けます。
鹿島は比較的ブラジルからJリーグ経験の無い選手を連れてくることが多く楽しみは多いです。
昨年はエヴェラウドとファン・アラーノがそうでした。
そして今年2021年もディエゴ・ピトゥカとアルトゥール・カイキが近々来日します。
まだどのような選手かわからない部分が多いです。
しかし鹿島アントラーズのスカウトが見つけた選手なら信頼が置けます。
彼らにはアルシンドを超える活躍とともにアントラーズの歴史に名を残す選手になってほしいと思います。
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