3月23日はかつて鹿島アントラーズでもプレーし大活躍をしたマルキーニョスの誕生日です。
鹿島というクラブの礎を築いたのはジーコですが、助っ人選手としての実績はマルキーニョスと答える方も少なくないかもしれません。
またJリーグ史に残るストライカーでした。
1976年生まれで47歳となった現在は、故郷のブラジル中西部のマトグロッソ・ド・スウ州で約3600ヘクタールという広大な農場経営をしているようです。
今回はマルキーニョスがどんな選手でどれほどの功績を日本で残したのか振り返ってみようと思います。
マルキーニョスは2001年の25歳の時にブラジルのコリチーバから東京ヴェルディ1969に加入をします。
J2降格の危機に瀕していたヴェルディを救うためシーズン途中の移籍でした。
そのため6ヵ月の短期契約であり本人も満了したらブラジルに帰る予定だったそうです。
しかしヴェルディのJ1残留に貢献したことで契約は更新され日本に長く関わることになりました。
2003年には横浜F・マリノスでリーグ優勝をします。
さらに翌年2004年はジェフユナイテッド市原でプレーし左アキレス腱を断裂という重傷を負いますが、14試合12得点と高い得点力を発揮しました。
そして2005年のシーズン途中に清水エスパルスに加入すると14試合9得点の成績を挙げてまたしてもJ1残留に貢献します。
2006年には清水で29試合11得点と来日6年目にして初めて年間を通じてレギュラーになり結果を残しました。
すると翌年2007年に鹿島がオファーを出します。
当時の鹿島は4年間無冠が続いておりチームの点取屋を探していました。
マルキーニョスはこれまでの活躍でJリーグでは名の知れた外国人ではありました。
しかし得点力はあるもののどこのクラブでも絶対的な選手ではなく移籍が多かったです。
そのためサポーターもなぜマルキーニョスを獲ったのかと最初は懐疑的だったと思います。
ただ31歳のマルキーニョスは鹿島在籍時の4年間でキャリアハイの活躍を見せてくれます。
4年連続二桁得点で2007〜2009年はリーグ3連覇、2007、2010年は天皇杯優勝と毎年タイトル獲得に大きく貢献します。
そして2008年にはMVP、得点王、ベストイレブンと個人賞を総なめにしました。
未だに鹿島の歴史の中で得点王になったのはマルキーニョスただ一人です。
また鹿島アントラーズの外国籍選手でリーグ戦59得点は歴代1位です。
これほどの活躍を見せますが世代交代を理由に2010年で鹿島を退団してしまいます。
そして2011年は波乱の年でした。
鹿島からベガルタ仙台に移籍した直後に東日本大震災に遭います。
いくら日本に慣れ親しんでいるとはいえ異国の地での大災害は不安であったでしょう。
奥様やブラジルにいる家族の希望もあり仙台を退団し帰国します。
この年は残りのシーズンを母国アトレチコ・ミネイロでプレーしました。
しかし翌年にまた日本に帰ってきます。
2012、2013年を横浜F・マリノス、2014、2015年をヴィッセル神戸でプレーします。
この頃は30代も後半でしたが2012〜2014年は3年連続の二桁得点でした。
最後の2015年は練習態度で当時のネルシーニョと衝突しその後の試合でメンバー外になったことで退団し帰国、そのまま引退となりました。
当時は他のJクラブからオファーがあり現役を続けるようなコメントもありましたが引退を選んでしまったことは残念です。
それでもJリーグで15年間もプレーをしてくれました。
身長は176㎝と決して大きくはありませんでしたが体は強くパワフルなシュートが持ち味でした。
ミドルシュートがあったため相手ディフェンダーからしたら嫌なフォワードだったでしょう。
またヘディングも強くオールラウンダーなストライカーでした。
それでいて前線で守備もきっちり行う献身性がどのクラブでも重宝された理由だと思います。
鹿島でJリーグ3回、天皇杯2回、マリノスではJリーグ1回、天皇杯1回の7つのタイトルを獲得しました。
個人記録では外国籍選手でのリーグ戦出場数はキム・ジンヒョン(359試合)に次ぐ333試合となっています。(3月23日現在)
さらにJ1リーグでの152得点は歴代6位で外国籍選手で1位です。
これまでJリーグには世界のレジェンド達が多く参戦してきました。
しかしブラジルの世代別代表にすらなったことがない選手が日本でトップの成績を保持しているとはおもしろいものです。
マルキーニョスが日本を去ってから8年が経ちます。
またこのような選手をJリーグで見たいです。
そしてぜひ鹿島アントラーズでプレーしてもらえたらと思います。
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