今年2021年は鹿島アントラーズの創設30周年ということで様々な企画やグッズが展開されています。
その中でも鹿島の背番号をテーマにした30周年記念動画「SQUAD NUMBERS〜背番号の記憶〜」は毎回見ていて胸が熱くなります。
今のところ背番号2から始まり背番号9まで来ています。
そして6月20日第18節ベガルタ仙台戦では背番号10が上映されます。
10番はサッカーではエースの背番号になります。
鹿島でも数多くの選手が10番として活躍してきました。
そのため背番号10はブラジル人と日本人に分けられています。
まずは今回はブラジル人バージョンです。
Jリーグでは1993年から1996年までの4年間は背番号は変動制でした。
そのため草創期はスタメンが1~11番でベンチ入りメンバーが12~16番となっていました。
今のように背番号が固定されたのは1997年からです。
そうは言ってもジーコのように大物は常に10番を付けており固定されていたようなものです。
ちなみにジーコはリーグ戦、カップ戦の出場試合は全てスタメン出場しているため10番しか背負っていません。
しかし1994年1月9日に行われたJリーグ初年度のチャンピオンシップ第1戦ヴェルディ川崎戦では怪我の具合が芳しくなくベンチメンバーでした。
そのため背番号13を付けています。
最後まで出場機会がなかったため13番のジーコを見ることはありませんでしたがもし出場していたら相当レアでしたね。
今回は10番特集としてブラジル人10番がどれほどの成績を残しタイトルを獲得しているか調べてみました。(リーグ戦のみ)
ジーコ(1993年~1994年サントリーシリーズ)
23試合出場14得点
タイトルなし
言わずと知れたスーパースターです。
鹿島アントラーズが日本でここまで成長し成功できたのもジーコのおかげと言って過言ではありません。
プロしての心構えをまだアマチュアだった日本に教えてくれました。
この時は41~42歳の時でしたがテクニックは全く衰えていませんでした。
怪我がちだったのが残念でしたが万全な体調であれば何かしらのタイトルは獲得できていたかもしれません。
現在も鹿島のテクニカルディレクターとしてクラブに貢献しています。
レオナルド(1994年NICOSシリーズ ~1996年前半)
49試合30得点
タイトルなし
ジーコの引退を受けて現役ブラジル代表が鹿島に加入します。
甘いマスクもありサポーターに未だに人気の選手です。
私も幼き日に祖母に頼んでレオナルドのユニフォームを買ってもらった想い出があります。
1995年11月1日の第19節横浜フリューゲルス戦で決めたリフティングシュートはJリーグ20周年企画「Jクロニクルベスト」で第1位に選ばれています。
たった2年間の在籍でしたがインパクトはかなり大きかったです。
フランスのパリサンジェルマンからオファーが来てしまい惜しまれつつも移籍してしまいます。
ロドリゴ(1996年後半~1997年)
16試合4得点
Jリーグ優勝(1996年)
レオナルドが移籍してしまったため後釜として加入しました。
サポーターの中でも印象が薄い選手かもしれません。
しかしパワフルな左足のシュートは魅力的でした。
ロドリゴがいたから1996年の後半も失速することなく初のリーグ制覇をすることができました。
翌年はビスマルクの加入で背番号は12になっています。
鹿島で固定制になり背番号12の選手はこの年のロドリゴただ一人です。
ビスマルク(1997年~2001年)
137試合33得点
Jリーグ優勝(1998年、2000年、2001年)
ナビスコカップ優勝(1997年、2000年)
天皇杯優勝(1997年、2000年)
Jリーグベストイレブン(1997年)
1997年に当時黄金時代であったヴェルディ川崎から移籍してきます。
本当に驚いた加入でした。
そして最も鹿島の10番として成功しています。
抜群のキープ力とキックの精度が凄かったです。
優勝請負人として7つのタイトルを獲得しています。
若き日の小笠原満男に絶大な影響をもたらしました。
以上の4人がブラジル人の背番号10です。
もしかするとロドリゴは映像に出てこないかもしれません。
個人的には好きな選手でしたので少しでもインタビューがあると嬉しいです。
このように鹿島の歴史はブラジル人10番によって作られてきました。
そして2002年以降の背番号10は全て日本人になっています。
しかし最近はなかなか定着せず2019年の夏に安部裕葵がバルセロナBに移籍してからは空き番号です。
そろそろ新しい10番が見たくなってきています。
原点回帰で来年の背番号10はブラジル人でもいいかもしれませんね。
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