ジーコの栄光とリネカーの悲劇【Jリーグ開幕戦を回想】

鹿島アントラーズ

4月17日は第9節名古屋グランパス戦がカシマサッカースタジアムで行われます。

対戦相手の名古屋グランパスと言えばJリーグ初年度の1993年からのオリジナル10のチームです。

当初は名古屋グランパスエイトという名前でした。

英語で名古屋城の金の鯱を表すグランパスと名古屋市の市章と縁起の良い末広がりのエイトを足してグランパスエイトとなりました。

しかしエイトの呪いなのか1993年2ndステージ、1994年1stステージ、1999年1stステージ、2003年2ndステージ、2004年1stステージと計5度も8位になります。

またずっと中位が続いたため2008年から名古屋グランパスに改名したという経緯があります。

ちなみにそれ以降1度も8位になっておらず2010年にはリーグ優勝をして強豪クラブになりました。

そして鹿島アントラーズにとってそんな名古屋グランパスとの対戦で一生忘れられない試合があります。

それは1993年5月16日Jリーグ元年の開幕戦のカードです。

両チームにとって記念すべきリーグ戦最初の試合でした。

当時はニュースや新聞でジーコvsリネカーと騒がれていました。

両チームのサポーターのみならずサッカー好きには堪らない世界的なスーパースター同士の対決です。

ジーコはここで語る必要がないほどサッカー王国のブラジル代表で活躍しました。

白いペレと呼ばれ1978年、1982年、1986年と3度もW杯に出場しています。

何より技術が高くフリーキックのスペシャリストでした。

そしてリネカーはイングランドが誇るストライカーです。

代表通算48得点(85試合出場)はイングランド歴代3位の記録となっています。(2022年4月16日現在)

未だにこの順位にいるのがすごいことです。

また1986年と1990年の2度W杯に出場し、1986年のメキシコ大会では6得点を挙げて得点王になっています。

イングランド史に名を残す名選手です。

2人の対決に騒がれてはいましたが鹿島アントラーズ自体はまだ全国区ではありませんでした。

Jリーグの始まる前の日本サッカーリーグ時代(アマチュアリーグ時代)に鹿島の前身である住友金属は2部所属でした。

地元の鹿島町ですらそれほど熱気に包まれておらず、ホームでの開幕戦でしたが10,898人の観客しか入りません。

開幕戦の行われた5会場中最低でした。

しかしそんな状況もたった1試合で変わります。

いきなりジーコのハットトリック、アルシンドの2ゴールで5-0の勝利とこれ以上ない最高のスタートを切ります。

対するリネカーは沈黙でジーコばかりが取り上げられる形となりました。

ただリネカーは前半にネットを揺らすもオフサイドの判定で取り消されます。

このシーンはオフサイドか微妙なところであり、リプレイも無かったため未だに謎のままです。

鹿島はこの開幕戦から快進撃が始まり1stステージを制覇します。

もしリネカーの得点が認められていたら鹿島の歴史が変わっていたかもしれません。

解説者の中には最下位予想もあったようで考えらない結果です。

またホームゲームは毎試合満員になりチケットは手に入らなくなりました。

そのくらい開幕戦での圧勝はインパクトのある1勝だったと思います。

その後名古屋はトラウマになったのかカシマサッカースタジアムで勝てなくなります。

ホームで名古屋に初めて負けたのが2008年8月23日第22節だったので15年間負けなしでした。

通算でもホームで相性がよくリーグ戦28試合で21勝1分6敗です。

完全に苦手意識を植えつけました。

しかしここ2試合はホームゲームで連敗中です。

もう一度開幕戦のような快勝劇で連勝街道を突き進みたいですね。

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