クリスマスイヴの12月24日に公式HPで目を疑うニュースが飛び込んできました。
2020シーズンでの曽ケ端準の引退です。
同学年の中田浩二は2014年に、そして小笠原満男は2018年に引退しています。
そして年下の内田篤人も今年の8月23日で引退しています。
そう考えると曽ケ端も引退が近いことはサポーターは皆感じていました。
確かにここ数年は全盛期よりも衰えた感はありました。
しかし2016年までは絶対的なレギュラーであり2017年にクォン・スンテが加入してからもレギュラー争いをしていました。
今年は若い沖悠哉が台頭し山田大樹も加入しました。
来年は明治大学から早川友基の加入も内定しており次世代に託したのでしょう。
プロである以上どんな選手にもいつかは引退がやってきます。
本当に別れは悲しいものですがこれまで曽ヶ端がいたから獲れたタイトルは数知れません。
今後どのような道に進むかわかりませんがぜひ鹿島に携わる仕事に就いていただきたいですね。
説明不要かもしれませんがこれまでの曽ケ端の来歴を少し振り返ります。
1979年8月2日に鹿島アントラーズのある茨城県鹿嶋市(旧鹿島郡鹿島町)で生まれます。
そして高校から鹿島アントラーズユースに所属し1998年にトップチームに昇格を果たします。
この世代は黄金世代と呼ばれ鹿島には上述した小笠原満男、中田浩二、そして本山雅志とJ屈指の高校生が入団しました。
彼らは高卒にもかかわらず早くからデビューし少しずつ戦力になっていきます。
曽ヶ端もGKとしてはデビューは早く2年目にはピッチを踏んでいます。
1999年5月8日1st第12節アビスパ福岡戦でした。
その試合を3-0で勝利し上々のデビューをします。
ちなみにこの試合は中田、本山もスタメンで中田はゴールも決めています。
その後はレギュラーを奪うには至らず2000年まではリーグ戦に6試合しか出場していません。
しかし2001年に正GKの高桑大二朗からレギュラーを奪うと2016年まで16年間ほぼレギュラーで居続けます。
曽ヶ端の代名詞である背番号21は前任の高桑から引き継いだものでした。
そして2014年4月12日第7節のアルビレックス新潟戦でJリーグ新記録の217試合連続出場を達成します。
結局この記録は244試合まで伸びており未だに破られておりません。
その後もコンスタントに試合に出続けリーグ戦533試合出場は鹿島アントラーズ史上歴代第1位の記録です。(Jリーグ全体でも第5位)
公式戦746試合出場もクラブ第1位です。
個人記録もヤマザキナビスコカップのニューヒーロー賞(2001年)やJリーグベストイレブン(2002年)など輝かしいものがあります。
また日本代表でも2002年の日韓ワールドカップのメンバーであり、2004年のアテネオリンピックではオーバーエイジで参加し全3試合スタメンでした。
このように鹿島のみならず日本を代表するGKにまで育ってくれました。
曽ヶ端の鹿島での1番の思い出と言えば2016年のクラブワールドカップでしょうか。
リーグ戦終盤はふがいないプレーが続き限界説も囁かれ始めていました。
それがチャンピオンシップで優勝し初のクラブワールドカップ出場権を得ると息を吹き返します。
第2ラウンドのマメロディ・サンダウンズ戦、準決勝のアトレティコ・ナシオナル戦は劣勢の中幾度とスーパーセーブでチームを救いました。
曽ヶ端の活躍なしには決勝進出はありませんでした。
この大会の鹿島MVPは曽ヶ端準であったと今でも思っています。
そしてCWCのタイトルは獲れませんでしたが鹿島で17個のタイトルを獲りました。(Jリーグ7回、ナビスコ杯5回、天皇杯4回、ACL1回)
これは小笠原と並びタイ記録です。
今年何かタイトルを獲れたら最高の花道になったのですが残念でした。
自分の生まれた町にJクラブが誕生してそのクラブでプロになるなんて夢みたいですね。
またそのクラブ一筋23年でサポーターに愛され引退するなんてもうこのような選手は出てこないでしょう。
Jリーグで1クラブに23年所属していたのは最長記録です。
彼こそワン・クラブ・マンでありバンディエラです。
鹿島アントラーズでは初の快挙となりました。
私はクラブ初の永久欠番は21にすべきだと思っています。
オブリガード、曽ヶ端準。
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