今年2021年はクラブ創立30周年の年です。
いよいよ2月27日にはJリーグの開幕戦に臨むことになります。
茨城県より2月5日に発表された県独自の緊急事態宣言の延長により収容人数を上限5,000人の中で行うことが発表されています。
観客数としては少し寂しい開幕戦になりそうです。
しかし鹿島アントラーズのサポーターは全国にいます。
スタジアムには行けなくともDAZNでの応援はきっとチームの力になるはずです。
しっかり勝って最高のスタートを切りたいですね。
そこで今回は創立10周年の2001年、創立20周年の2011年がどのような年であったかを振り返っていこうと思います。
まず2001年です。
前年の2000年がJリーグ初の3冠という素晴らしい年でした。
そして監督はトニーニョ・セレーゾが続投しています。
しかもシーズンオフは古川昌明が引退したのみで、阿江孝一(ガンバ大阪)、そして青木剛(前橋育英高校)と2名が加入し戦力アップをします。
そのため期待値が大きいシーズンでした。
しかしシーズン開幕前の3月3日ゼロックススーパーカップで清水エスパルスに0−3で敗れ暗雲が立ち込めます。
その嫌な予感は的中してしまいました。
Jリーグは3月11日のサンフレッチェ広島との開幕戦こそ2−1で勝利するもののその後は負けが先行し1stステージは6勝1分け8敗の11位と鹿島史上初の二桁順位という不名誉な順位で終わります。
鹿島レベルでも一度歯車が噛み合わなくなると全く勝てなくなるのがサッカーの怖いところです。
また前年に日本代表の相馬直樹が左膝外側半月板損傷の重傷で離脱していたのが大きく響いてもいました。
そこで2ndステージにアウグストをボタフォゴから獲得してきます。
この補強が当たりました。
豊富な運動量を武器にフリーキックやヘディングなど超攻撃的な左サイドバックとして大活躍します。
そして2ndステージは8月11日のコンサドーレ札幌との開幕戦から7連勝しスタートダッシュをすると13勝2敗で優勝しチャンピオンシップ出場権を獲得します。
これほどチームが変わるのもなかなか珍しいですね。
しかし全く浮かれることはできませんでした。
それはチャンピオンシップの相手がジュビロ磐田だったからです。
年間勝ち点は17も離れていました。
また2ndステージの連勝を止められたのは10月13日第8節のジュビロ磐田(0−2)であり、同時開催されていた9月26日と10月10日のナビスコ杯準決勝でも0−1、0−0の2戦合計スコアで敗退となっていました。
1stステージでも負けておりここまで1分け3敗と全く歯が立たない相手でした。
この頃のジュビロは今の川崎フロンターレをイメージしていただければわかると思いますが同じくらい強く鹿島にとって天敵でした。
そのため不安しかなかったことを覚えています。
そしてついにチャンピオンシップを迎えます。
12月2日の第1戦はアウェイのエコパスタジアムで行われましたが12分に服部年宏、55分に中山雅史に決められ0−2となりました。
さらに38分に鈴木隆行が退場しており10人での時間が長く、試合も圧倒され正直心が折れ始めていました。
しかし80分にCKからのワンチャンスで秋田豊がヘディングで1点を返し鹿島が蘇ります。
すると直後の84分に途中交代で入ったばかりの平瀬智行がゴール前のこぼれ球を蹴り込み2−2のドローに持ち込みました。
平瀬はこの年絶不調でシーズン23試合出場でノーゴールだったのです。
そんな男が大一番で最高の仕事をやってのけました。
初戦が10人で劣勢の中しかも0−2から追いついた状況で完全に流れは鹿島に来ていました。
そして運命の第2戦は12月8日にホームカシマサッカースタジアムで行われます。
この試合の観客数は40,115人でカシスタの公式戦の最多観客動員試合となっています。
試合内容は一進一退でしたが徐々にジュビロが押し込んできます。
何度か決定機がありましたが曽ヶ端準を中心とした堅い守備でどうにか0−0で試合が進みます。
鹿島はスーパーサブの本山雅志を51分に投入し状況を打破しようとしますがこの采配が勝負を決めました。
本山のドリブルにジュビロのディフェンス陣が対応できなくなってきます。
そして101分にその本山へのファールで得た絶好のFKを小笠原満男が直接ゴールをしました。
当時は延長Vゴールだったので決まった瞬間に年間チャンピオンが決定するという劇的な幕切れでした。
決まった瞬間はものすごく叫びましたね。
今はVゴール方式が廃止されておりこの感動が味わえなくなったのが残念です。
この年はこの1度しかジュビロに勝てませんでしたがそれがチャンピオンシップだったのは勝負強かったという一言に尽きます。
これでJリーグは2連覇となりました。
その後すぐに最後の大会である天皇杯に参戦します。
激闘の後で疲れもあった中3回戦、4回戦は2試合とも6−0で危なげなく突破します。
しかし準々決勝で思わぬ落とし穴が待っていました。
次なる相手は年間16位の最下位でJ2降格が決まっていたセレッソ大阪でした。
優勝クラブvs最下位クラブの対戦であり誰もが勝利を確信していました。
結果はまさかの2−4で敗れ天皇杯連覇の夢は叶いません。
このように2001年はリーグ戦優勝、ナビスコ杯ベスト4、天皇杯ベスト8という結果でした。
3連覇の翌年で期待が高かった中Jリーグ制覇をできたことはよかったのです。
10周年という記念すべき年に評価されるべき結果は残せたのではないでしょうか。
思ったより2001年だけで長くなりましたので次回は2011年を振り返っていきます。
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