2021シーズンも鹿島アントラーズのテクニカルディレクターとして契約が更新されたジーコですが来日したのは1991年でした。
ちょうど日本に関わるようになって30年が経ちます。
そんなジーコは1953年3月3日生まれなのでもうすぐ68歳になります。
コロナで世界中が大変な中また鹿島に関わっていただけることに感謝します。
もう高齢なので無理せずチームに助言をしてほしいです。
ジーコは日本では鹿島のテクニカルディレクターや日本代表監督と指導者として有名かもしれません。
しかし現役時代はブラジル代表として伝説的な選手でした。
セレソンとして94試合出場で77得点を決めています。
そしてワールドカップには1978年、1982年、1986年と3大会も出場しています。
背番号10で有名ですが初めて出場した1978年のアルゼンチン大会は背番号8でした。
クラブでもブラジルのフラメンゴ、イタリアのウディネーゼで活躍し1989年の36歳で現役を引退します。
翌1990年は大統領はからブラジルのスポーツ担当大臣に任命され政治的な仕事を行なっています。
そんなジーコが引退から1年後にまさかの現役復帰します。
それは日本でサッカーがプロ化すること、その町おこしとしてプロチームが誕生することに魅力を感じたようです。
鹿島にとっては運命の出会いでした。
そしてここからJリーグ開幕前の1年半、開幕後の1年半の合計3年を現役として過ごします。
当時の年齢と成績を振り返ってみます。(スタメンと出場時間は確認できたもののみ記載)
1991年秋〜1992年春(満40歳)
リーグ戦22試合21得点
カップ戦2試合1得点
Jリーグが開幕する前の最後の年です。
ジーコはJリーグ開幕の前年から鹿島の前身住友金属工業蹴球団でプレーしています。
この時、住友金属は日本サッカーリーグ(JSL)の2部でした。
いくら40歳とは言え2部では別格でした。
体力は衰えても技術は腐らないと言いますがその通りの活躍です。
当時の映像を見ましたがFKの精度はブラジル代表の時と同じでした。
ジーコは得点王になりチームは2位と躍進します。
1992年秋(満40歳)
ナビスコ杯10試合(スタメン10試合892分出場)6得点
天皇杯2試合1得点
当時のJSLが春に終了していたため翌年のJリーグ開幕前にプレ大会として第1回ナビスコ杯が先駆けて行われました。
鹿島アントラーズ(JSL2部)、清水エスパルス(静岡1部)以外の8チームはJSL1部であり苦戦が予想されました。
しかし鹿島は予選リーグを4位で勝ち抜け決勝トーナメント準決勝に進出します。
惜しくも優勝するヴェルディ川崎に0−1で敗戦しますがJリーグへの期待が持てました。
ジーコは週2試合をほぼフル出場しています。
1993年(満41歳)
リーグ戦16試合(スタメン16試合1354分出場)9得点
ナビスコ杯3試合(スタメン3試合225分出場)1得点
天皇杯4試合2得点
チャンピオンシップ1試合(スタメン1試合82分出場)0得点
そしてJリーグ開幕初年度です。
名古屋グランパスエイトとの開幕戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを達成し5−0と最高のスタートを切ります。
しかし第2節の横浜フリューゲルス戦の前半18分に肉離れを起こし途中交代します。
その後は復帰も怪我がちになり年間試合の半分ほどの出場となりました。
天皇杯決勝は出場できず、チャンピオンシップも1試合のみの出場でした。
前年のような活躍ができていたらこの年に鹿島の初タイトルが獲得できていたかもしれません。
1994年(満42歳)
リーグ戦7試合(スタメン7試合585分出場)5得点
この年のサントリーステージ(第1ステージ)で現役を引退します。
ラストイヤーは怪我で出遅れ5月14日のサントリーステージ第16節サンフレッチェ広島が初出場となります。
そこから引退する第22節のジュビロ磐田戦まで7戦連続でスタメン出場します。
しかもほぼフル出場しています。
そしてチームはその7試合を6勝1敗という好成績で終えました。
ちょうどJリーグが開幕した頃から怪我で欠場することが多くなりました。
しかし出場した時のインパクトは流石でした。
Jリーグがもう1年早く開幕していたら違う歴史になっていたでしょう。
ただ40歳を超えてこれほどプロリーグで活躍できる選手はそうはいません。
現在Jリーガーの平均在籍年齢は2〜3年で引退年齢は25〜26歳と言われています。
プロサッカー選手は華やかであると同時に厳しい世界です。
肉体的にも精神的にも充実していないと長く続けられません。
ジーコは日本にプロとは何かを教えてくれました。
もしかしたら今年が鹿島で仕事をする最後の年かもしれません。
これまでのジーコの功績には感謝してもし尽くせません。
ジーコのためにも今年は必ずリーグ優勝したいです。
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